ねじの歴史

1. ねじの起源

ねじがどのようにして生まれたのか、ねじの起源については諸説ありますが、いずれにせよ古代に誕生したといわれています。

【起源説その1】
自然にある螺旋(らせん)形状の物からの発想。例えば、巻貝、カタツムリの殻、樹木に巻きついた蔓(つる)、海または川の渦巻き、星雲の渦巻きなどから想いついた。

【起源説その2】
原始的な火起こしキリ(Fire Drill)からの発想。火起こしキリ(Fire Drill)のひもあとの形状から想いついた。

【起源説その3】
土器を作る過程からの発想。土器を作る時に粘土が作り出す螺旋形状から想いついた。

 

2. 初期のねじ

古代ローマ時代
B.C.750年頃
くさびボルト(Wedge Bolts)の使用
ねじではなく、くさびによるつなぎボルトが使用されていた。(縄文時代)
B.Ⅽ.200年頃〜 送りねじの登場
回転運動を直線運動に変換する仕組みによる、ねじが使用されていた。(弥生時代)
 ねじ圧搾機(Screw Press):B.Ⅽ.200年頃、ぶどうやオリーブの果汁しぼりに用いた。
 螺旋揚水機:“アルキメデス(B.Ⅽ.278〜212)のねじ”と呼ばれ、かんがい用の水を揚水するために用いた。
 医療用スペクルム:イタリアのポンペイ遺跡から出土。青銅製の医療用の鉗子として用いた。

伝説上ではねじの発明者は、古代ギリシアの哲学者であり、数学者でもあった「アルキュタス(Arkhytas B.Ⅽ.400〜365)」とされています。数学的な原理を利用してねじの力学を体系化しました。

 

3. 近代的なねじの出現

13世紀 スクリュウ・ジャッキの登場(鎌倉時代)
15世紀 活字印刷機の登場(1450年 独、グーテンベルクにて印刷開始)(足利時代)
ルネッサンス期 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452〜1519)による研究。右ねじ・左ねじ、早送りねじ、ねじ引張試験機、ねじ切り盤、めねじ用タップ等。(さまざまな構想を残すも実現されたのは産業革命以降といわれる)(足利時代)

 

4. 近代的なねじ生産技術の発展

紡績機械の開発(1760〜70)と、ジェームス・ワット(James Watt)の蒸気機関車の発明に代表される紡績・鉱業・造船・鉄道・印刷等広範囲の産業革命期(1760〜1830)に、ねじの生産技術も飛躍的に進歩し、これ以降、資本主義的大量生産方式へと展開します。

1579年 本格的なねじ切り盤の開発 ジャック・ベッソン(仏)
1760年 ねじ製造用旋盤の開発〜工場生産方式へ。  ワイアット兄弟(英)
1817年 線材からダイス、パンチによる頭部圧造法の開発 ジョン・コルベルト(英)
1830年 足踏み式ドロップハンマー(圧造機)の開発
“オリバー”の名称で普及する。後のフリクションプレスの基礎となる。
トーマス・オリバー(英)
1835年 自動ねじ切盤の開発
ねじの標準化、規格化をし、「ウイットねじ」の生みの親として有名。
ジョセフ・ウイットウォース(英)
1836年 ねじの転造加工法の開発(2ヶの丸ダイス式) ウイリアム・キーン(米)
1847年 冷間1段打ヘッダーの開発 ウイリアム・ワード(米)
1868年 冷間2段打ヘッダーの開発、角根ボルト製作 ウイリアム・クラーク(米)

 

5. 種子島銃と日本のねじの始まり

日本におけるねじの始まりは、種子島銃(火縄銃)の銃孔の後端部分の底をふさぐ方法として、おねじとめねじの製作をポルトガル人から習得したのが始まりとされています。毛利元就、今川義元、武田信玄、上杉謙信らの時代でした。(川中島の戦いが1553年8月のこと)

 

1543年(天文12年)8月25日 種子島の西村小浦にポルトガル商人の乗った南蛮船が漂着。時の種子島の首長の種子島時尭(ときたか)が鉄砲2挺を購入する。
翌1544年(天文13年) ポルトガル商人が種子島の熊野の浦に再来。この時、時尭の部下が船客の鉄匠から銃孔の後端部分の底をふさぐ方法を習う。
尾栓のおねじ=ボルト ⇒  ヤスリを使って手作業加工で製作。
銃身後端部のめねじ  ⇒   鉄製のめねじ用のねじ型を使って鍛造加工。

 

1年間に数十丁の鉄砲を模倣製作。堺の商人・橘屋又三郎が種子島に12年間滞在して鉄砲製作を習得し、堺、和泉を経由して全国へと広がっていきました。1560年の桶狭間の戦いでは、織田信長が鉄砲を大量使用して今川義元を倒しています。

 

6. 日本の初期段階のねじの作り方

日本における初期のねじは、鍛冶屋さんで金づち、へしと呼ばれる型、タップやポンチそしてヤスリ等を用いた鍛冶職人による手仕上げ加工方法に頼っていました。幕末に至り欧米列強の産業革命以降のめざましい科学技術の発展に対し、長い鎖国体制化にあった日本産業との格差は深刻であり、欧米の開国要求には海防を主体とした軍事体制の強化が急務となり、幕府や雄藩は艦船の建造、大砲、小銃の製造に着手し工作機械類が輸入され、この中にねじ用工作機械も含まれたとされています。しかし、加工方法は切削加工法でした。

1850年(嘉永3) 佐賀藩が日本初の青銅や鉄の溶湯を目的とした反射炉を築造。スクリュウプレス(送りねじ)を使用して型に圧力を加え、反射炉築造用のレンガを量産。
1858年(安政5) 佐賀藩が日本初の兵器製作用の近代的工作機械をオランダから購入。大小旋盤2台、ねじ切盤1台、パンチングマシーン1台等。

明治維新後、富国強兵、殖産振興政策のもと陸海軍中心の軍事目的にねじ用工作機械が導入されました。民間では、日清戦争(明治27〜28)、日露戦争(明治37〜38)を契機に近代化が進みます。

1884年(明治12) 日本初の冷間頭部成形用の英国製ヘッダー導入。(陸軍)
1887年(明治20) 6軸ナットねじ立て盤導入。(海軍)
1907年(明治40) ねじ部品の民間からの調達機運が高まり民間でもヘッダー導入。